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吉夢通信

吉夢通信

水無月によせて・・・。

2015年06月19日
posted by 吉夢 女将

雨に映える紫陽花の美しい季節となりました。

 

今日もシトシト雨ですが、フロントさんと、

夏のお子さま広場のイベントに必要な物等検討し、

急いで一緒に発注かけております。

 

今年も、8月1日からの連夜の花火、お子様プールその他諸々、思案中でございます。

好評のロビーでの潮騒コンサート、

そして今までボディートリートメント、

「凪」でご要望の多かったフェイシャルも、

エステティシャンが何とかご用意出来そうで、

次回、良いご報告が出来ましたら、こんなに有り難い事はありません。

 

今年も、皆さまに沢山の夏の思い出をお持ち帰り頂けますように、

スタッフと共に一丸となり、

笑顔で皆さまのお越しをお待ち致しております。

 

そして、私事となりますが、

吉夢会長として、半世紀以上を、

ホテルの発展のみを願い、尽くしきった母が、

今生のお役目を終え、6月の青い空がまぶしく輝く日に、

私達家族が見守る中、静かに旅立ちました。

  

神田生まれの一服の煙草をこよなく愛し、

他に贅沢品は一切持たず、只々ひと様へ、また寺院各所にお布施を欠かさない方でした。

私は、東京から嫁いでこの5月で、35年の月日を、毎日母の生き様を見させて頂き、

このブログで会長の事を触れさせて頂いたことも、何度かございました。

質素倹約を旨とした、大正10年生まれの、

一本筋の通った、それでいて情けに篤い温かな、ものの道理をわきまえた方でした。

婚礼の翌日、お部屋にご挨拶に伺うと、

「貴女も私も、吉田家の嫁に入った限りは、

暖簾を広げても、下ろす事だけはあってはいけない!!」と、

最初に言われた言葉が強く印象に残り、覚悟したものです。

そう申しても、若干26歳の何も判らない嫁で、

母には随分と苦労もかけ、やきもきさせた事でしょう。

この半年、病院と施設を何度か行ったり来たりし、

主人と私達兄弟家族が施設の主治医の先生と最後に決めた事は、

痛む事無く、苦しむ事無く、自然にと・・・。

 

先生も、江戸時代の頃の様にとおっしゃって下さり、

点滴なしの、全くの医療行為なしの介護と看護、

施設の方々の暖かな介護、看護には、

旅館業の私共でも、脱帽の手厚いもので、

それを、母に教えられた思いで、毎日施設とホテルを通い、

時には耳元で、ふるさと♪・・夫婦春秋♪を唄ってみたり、

いつか近いうちに訪れるであろうお別れに備え、

母のベットの脇で、越し方を振り返りながら、

想ひ出なるものを、書きとめました。

 

写真は、私が嫁いだバリバリ働いてらしたザ・女将58歳当時を中心に、

先代の写真、長兄 故副社長の写真も織り交ぜ、

会葬にお見えになった方に、母の人となりを、

ご苦労多かった人生の締めくくりに、

嫁としてつたない言葉でも、ご恩返しにと書かせて頂き作成し、

会葬の皆さまへお渡しいたしました。

 

これから、35日、49日、新盆と、

まだまだ、母と語り合う時は残っておりますが、

子が親を選んで生まれて来れるなら、

やはり生家の母を・・・。

そして嫁に入り、もう一人掛けがえの無い方を選べましたら、会長を・・・。

生家の母よりも長く共に人生を歩み、母と呼べました事に、

無常の喜びと、深い感謝を込めまして、

「会長!!お母さん!!今までお導き下さり有難うございました!!」と、

心から申し上げたいと存じます。

   

お花の大好きだった母は、沢山の生花に囲まれ、

沢山の皆さまに見送られ、布施の権化の方は、惜しまれながら逝きました。

 

日蓮大聖人が『先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし・・。』と、喝破され、

マザー・テレサが亡くなられた折、沿道で百万人の方々に見送られ、

愛の行為に全てを捧げ亡くなった後に、

遺されたものは、二枚のサリーと、身のまわりのものを入れる袋だけだったそうです。

その人生が、最高に豊かな人生だったとありました。

  

母も、まったく同様に、

全てを与え尽くして、何も持たず魂の故郷へ旅立ちました。

私のようなものが大変僭越ではございますが、

生前母に賜りました多くのご恩情に、

この場をお借り致しまして、伏して御礼申し上げます。

梅雨の雨も慈雨のごとく、今日も生かされ深い感謝!!

人生の最後に残るものは 集めたものではなく 与えたものである

(ジェラルド・シャンドリー)